いじめにおいて担任教諭ができることはなんだろう。ただいじめをやめさせてもプラスの意味をなすことはほぼないだろう。ゼロ以下の働きにしかならないと強く思う。だが「見ているだけ」が許される立場でもないだろう。間に入り緩衝材となるには格好の役者であろうし、クラス全体の共通敵となって場を撹拌することもできよう。目に見えるいじめを鎮静化させるのはしてはいけないことだ。行為でなくそれが起きる土壌・その空間・関係性を強く強く見つめ、穴があくほどに見詰め、そこにこそ介入すべきであり、そこにしか役目は見いだせない。いじめとは異質を排除するか全体が変質するかを決める契機なのだ。排除を認めるのは楽だ。楽なうえに出所不明の優越感まで湧いてくる。ヤバい薬よりも性質が悪く、病とするならそれは不治のそれと言いたい。どうあがいても一生付き合うことになる人間の「本質」だ。
がんに似ている。取り除いたようでまだそこにあり、完治など夢の遠い遠いそのまた夢。悪意とみなせる存在だが、それは生きるための何がしかの暴走にすぎない。死のにおいはすれども、同時に生のにおいも嫌になるほどきついのだ。
いじめは受けるものにとって崖だが、する者にとっては道だ。生きるために仕方なしに歩く人もいればそういう道なのだと見て見ぬふりして歩く「前向きな」人もいる。この場合の「前向き」さは弱さの象徴であるのだが。
何が言いたかったのか見えなくなってきていた。話を戻そう。クラスという閉じた場の中で孤高にふるまえる人間は、教師をおいて他にいるまい。目に見えるいじめという現象のみを取っ払うのは悪手であり、その現象からすら目を背けるという愚行を犯すのは、教師の本分ではなかろう。お飾りにすらなっていない。いじめに加担する「異質を拒む者」である。臭いものを漏らさぬようにするだけの蓋だ。ない方がマシな無用の長物だ。臭いものがつまった壺の中に変質をもたらすために、まずただの蓋であるのをやめることが求められよう。